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2021年5月

2021年5月11日 (火)

エノキタケ栽培発祥の地は亀岡市篠町!

またまた前回の更新からずいぶんと間が空いてしまいました😅

今回は、おなじみのエノキタケのお話しです。
今日、とっても面白い話を院生時代からの友人でもあるキノコ博士の齋藤暖生齋藤暖生くん(東京大学富士癒しの森研究所長)から教えてもらいました。

スーパーの店頭でもおなじみのエノキタケ、現代ではおがくずを使った菌床栽培が主流ですが、その発祥の地は、実は京都府亀岡市篠町!調べてみると、その昔「かめ茸」とも呼ばれていたそうです。

柿の木を使った原木栽培がおこなわれていたエノキタケですが(隣の西京区大枝は今でも柿の一大産地ですからこの辺りでもそれなりの収穫があったとしても不思議ではありません)、原木が足りなくなって京都の森本商店とともに菌床栽培の技術を確立したそうです。

萩本(2015)によれば、大阪朝日新聞1928(昭和3)年5月30日付の記事の中で、柿の木がどんどん伐採される現状を憂慮して亀岡を視察した森本農園園主森本彦三郎氏は、同行した松下京都営林署長から「生茸二、三本を貰ひうけ寒天培養によつて胞子を養成し殺菌した壜中に鋸屑を入れてその胞子を移植し約半年にわたる苦心の結果、移植後約一ヶ月間に一塊に数百のなめ茸を叢生せしめる人工栽培法に成功した」そうです。

Osakaasahi19271214

森本氏が亀岡町篠村のエノキタケ栽培地を視察した記事[大阪朝日新聞の1927(昭和2)年12月14日の記事と推定]
出所:萩本宏(2015)「森本彦三郎が菌床栽培法と原木栽培用菌種の発明に至った経緯の考察」(千葉菌類談話会通信31号、pp.42-62)

篠村史によると、当時の篠村では、寒天が寒谷(さぶたに)で製造されていましたが、それも役に立ったのかもしれませんね。

Shinomura_kanten

当時は「かめ茸」と呼ばれていた菌床栽培のエノキタケ、貴重な現金収入だったようで、昭和2年当時で5,000~6,000円の売り上げがあったようです。篠村史によるとその当時の農家の平均所得は327円71銭(大恐慌後の昭和9年には128円47銭まで下落)、昭和3年の村の歳入総額が71,632円(うち税収26,971円)ですから、かなりの規模だったことがうかがえます。

篠村史によると

篠村の特産としてかなり古くから知られているものに、なめたけ、別名榎茸(えのきたけ)というきのこの一種がある。渋柿や榎などに栽培するもので、一時は大阪に出荷して、販売額も3,000円内外に達したが、昭和4・5年ころには雑菌がはびこって栽培不能になっていた。(篠村史 p.479)

と記されています。

その後、大恐慌の困窮を救うことになるのは、丹波栗の海外への輸出という挑戦でした。当時の新聞では「米価下落に泣く村を救った栗栽培」として「農村の自力更生に雄々しい歩を運び出した」(朝日新聞 昭和7年7月24日)と紹介されています。

そして、さらに輸出を伸ばすために村の人びとは、すべて村費で馬堀駅を設置し、栗を始め農産物の出荷がスムーズに行えるようにした、ともあります。

すごいな、ふるさとの先人!コロナ禍の今こそ、100年前の地域の先人がどうやって世界恐慌を乗り越えたのか、学びなおしたいと思いました。

ちなみに篠村から始まったエノキタケ栽培が現代までどんな道をたどったのかについては先日出版された「野生性と人類の論理 ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考」(東大出版会)に収められている「つくられた野生――エノキタケ栽培がたどった道」(齋藤暖生)に詳しく紹介されていますので、ぜひご覧ください。

野生性と人類の論理 ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考
卯田 宗平 編
http://www.utp.or.jp/book/b559379.html


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