被災地を訪れて、見たこと、考えたこと(1)
やっと、というべきか、念願かなって、東北の被災地を訪ねることができました。
念願かなって、というのは、私も一緒に携わっている京都府亀岡市の「京都亀岡 小さな町から小さな町へ 支えあおうプロジェクト」で、これまで支援物資をお届けしてきた被災地のみなさんにやっとお会い出来ることになったからです。
みなさんの元気なお顔を見たい、という気持ちと、これまで支援物資をお届けしてきたことを果たしてみなさんはどう受け止めておられるのだろう、という気持ち。それが入り混じって、行きたいような、不安なような、そんな気持ちでした。
一枚目の写真はそのすぐ近くの海岸沿いの大曲地区。まだたくさんの家が、津波の傷跡も生々しく残されたままになっています。8か月経っても、まだこの風景。言葉もありません。
そこからもう少し内陸部に入った赤井地区にも川を逆流した津波が押し寄せ、大きな被害をもたらしました。私たちは避難所となった赤井市民センターに、食料品等をお届けしてきたのですが、まずはその市民センターの窓口になってくださった方とお会いしました。
昼食をご一緒した後は、近くの東松島高校の体育館で行われていたミュージカルの練習を見学。このミュージカル、全国のたくさんの人たちから受けた支援に感謝の言葉を伝えよう、と3歳から80歳まで、住民のみなさんが今、100人で演じるミュージカルの練習に励まれています。3月には銀座で上演される予定、練習には、私も飛び入り参加させてもらいました。
一緒に歌っていると、じーんとくる歌詞。一緒にうたった「この町の土になる」という歌が、耳から離れません。
この町に生まれて
この町で育って
この町で暮らして
この町を好きになる
この町に生まれて
この町で育って
この町で暮らして
この町の土になる
そうなんだよなぁ、故郷に生きるってそういうものなんだよなぁ、と、しみじみ感じました。
次に訪れたのは、東松島市野蒜地区。東松島市でも最も被害の大きかったところです。この地区だけで200人もの方がお亡くなりになりました。
また駅で行き違いをした仙石線の上下列車が、まったく対照的な運命をたどった場所でもあります。
電車が流されたのはこの踏切の先です。
このあたりはくしくも「亀岡」という地区。200軒ほどあった集落のうち、流出をなんとか免れて自宅に戻って生活を再開されたのは、もっとも山沿いの8軒だけ、というすさまじさ。
津波を免れた電車は、少し移動されてはいますが、ここに繋がる線路が寸断されているため、取り残されたままになっています。
避難所に指定されていた野蒜小学校の体育館。
この体育館は集落のかなり奥の高台にあるのですが、ここも水に飲まれ、避難されていた多くの方が命を落とされました。体育館の2Fのギャラリーにいた人は助かったものの、フロアにいた大勢の方、そして体育館に入りきれなくて外の駐車場にいた人が流され、ただただ呆然と見るしかなかった、といいます。
運よく助かった方も、今度は低体温症からくる猛烈な寒さに襲われ、震えが止まらなくなり、着替えが無い人は犬を抱いて夜を過ごした、とも聞きました。流されずに残っていた家の2Fから衣類を勝手に拝借したり、木の葉を体に張り付けたり。とても文字には出来ない、想像を超えるお話しをいくつも教えていただきました。
それでも少しずつ、生活の再建は進み始めています。
支援物資で届いた毛糸を使って、お礼にとタワシを編まれているおばあちゃんたち。少しでも、感謝の気持ちを伝えられたら、と始められたそうですが、それがまた新しい喜びにつながっているそうです。
今、物資はほとんどの被災地では足りていて、そればかりに頼っていてはいけないことも分かっている。だからこそ、生活を再建し、地域を再建するために、自分たちでは解決できない問題を一緒に考えてくれる知的な支援が欲しい、とおっしゃっていたのが印象的でした。
つづく。。。
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