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2007年5月 3日 (木)

光秀祭

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先日も書きましたが、亀岡では今日は光秀祭です。

  もともと、京の都のすぐ西隣にあり、古くから開けていた丹波地方ではありましたが、近世の都市としての歴史が始まるのは、やはり光秀の功績に負うところが大きいでしょう。天正7年(1579年)に丹波を平定した後、信長より丹波一国を任ぜられた明智光秀は、この亀岡(当時は亀山)に亀山城を築城し、丹波を治めたのでした。

その後、天正10年(1582年)の本能寺の変の際に光秀軍は亀岡を出て、山陰道より京都に進み、信長を討ったのはあまりに有名な話です。逆臣、謀反者、として語られることの多い光秀ではありますが、しかし一方で、諸学に通じ和歌・茶の湯を好んでいた文化人であったこと、また内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、ここ亀岡や、Takeuchiさんのブログで紹介されている福井の明智神社のように、彼を慕う地域が多いのもまた事実です。

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そんな光秀を顕彰する目的で始まった亀岡の光秀祭も今年で35回目を迎えました。行列には子供たちの武者行列や和太鼓、高校生のブラスバンドなんかも加わってなかなかにぎやかなものです。

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行列には光秀にまつわる3人の女性の姿もあります。昨年の大河ドラマでは、山内一豊とその妻、千代のラブラブな?夫婦が紹介されていましたが、光秀と妻の煕子(ひろこ)も、それに負けず劣らずエピソードに富んだ夫婦として知られています。彼女は、天文14年(1545年)、光秀と婚約しますが、その後疱瘡にかかり体中にあばたが残ってしまいました。父・妻木勘解由左衛門範煕は、煕子と瓜二つの妹を、煕子のふりをさせて光秀のもとに嫁がせようとしましたが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたといます。

その後、本拠の落城、一族の離散、浪人生活、朝倉家・足利家・織田家仕官という波乱万丈の日々の中で、煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助け、光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたといいます。そして、光秀が重病となった時にも必死に看病したものの、自身がその看病疲れが元で亡くなってしまったそうです。(天王山の戦いの後、坂本城落城のときに死亡したという説もあります)

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さて、光秀がもっとも信頼を寄せていた家臣の一人が、美濃の斎藤氏一族(光秀のかつての主君は斎藤氏)の出である、斎藤利三です。

光秀が織田信長に対する本能寺の変を計画した際、それを娘婿である明智秀満と利三だけに打ち明けたといわれています。そのとき、秀満は賛成しましたが、利三は無謀であり、主君をそのような形で討っても、他の大名の支持を得ることはできない、として反対したと言われています。しかし主君の命令とあらば逆らうわけにもいかず、彼は本能寺攻めの首謀者の一人として参加し、さらには、秀吉との天王山の戦いでは先鋒として獅子奮迅の活躍であったと伝えられています。しかし、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され、六条河原で斬首となり、その首と胴は光秀とともに本能寺に晒されたと伝えられています。

その利三の娘が後に江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母、春日局として知られるようになる福です。

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本能寺の変の後、彼女の兄弟も離散してしまいますが、彼女は女であったことから、追われることはなく、親戚である公家の三条西家で育てられました。その後、外祖父である稲葉一鉄の縁者で小早川秀秋の家臣、稲葉正成の後妻となりますが、のちに、将軍家の乳母となる為、夫の正成と離婚する形をとり、1604年(慶長9年)に、2代将軍徳川秀忠の嫡子、竹千代(家光)の乳母に正式に任命され、朝廷から春日局の称号を賜ります。ちなみに、その選考にあたっては、福の公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれています。

彼女の功績を称え、亀山城の大手門前の坂道は、「春日坂」と呼ばれています。

光秀と煕子との間に生れた子供の一人が後の細川忠興の正室、ガラシャ夫人こと玉子(玉)です。

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彼女こそ、本能寺の変によってもっとも人生を翻弄された女性ではないでしょうか。

細川忠興の正室となった玉ですが、父の光秀が主君・織田信長を本能寺の変で討って自らも滅んだため、彼女は「逆臣の娘」となってしまいますが、忠興は玉を愛していたがために離縁する気になれず、彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、親戚筋の侍女達でした。

後に秀吉のとりなしもあって、忠興は玉を細川家の大坂屋敷に戻し、嫡男をもうけています。このような人生の中で、彼女はカトリックの話を聞き、その教えに心をひかれるようになります。そのきっかけとなった修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べたと伝えられています。彼女は密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けます。

しかし、後に秀吉は宣教師追放令を出し、キリスト教徒を長崎に追放するとともに、大名は許可無くキリスト教を信仰することを禁じます。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女たちの鼻を削ぎ、追い出してしまいます。ガラシャ自身は、幸いにも忠興に知られることはありませんでしたが、宣教師に忠興と離縁したい、と相談をします。しかし宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、その教えに従います。

関ヶ原の戦いが勃発する直前の1600年7月16日(8月24日)、大坂の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしますが、ガラシャはそれを拒絶。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原少斎に胸を貫かせて落命します。(カトリックで自殺は認められていないため)。

“ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の

花も花なれ 人も人なれ”

は、彼女の辞世の句。このあと、小笠原少斎は屋敷に火をかけて自刃して果てました。

ガラシャの死を聞いた、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れて彼女の骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬ります。忠興もまたガラシャの死を深く悲しみ、1601年にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しています。

彼女の悲劇的な最期は、しかし徳川家康率いる東軍の結束を結果として固め、やがては江戸幕府の成立、という大きな歴史の流れにつながっていくのです。

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亀山城大手門から天守閣へと続く道です。400年前、光秀や利三たちはどんな想いで城を後にし、女性や子供たちはどんな想いで見送ったのでしょう。

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コメント

TBありがとうございました&文章中のリンク多謝です!
今年の正月にあった光秀ものの時代劇はイマイチでしたが、冷静に歴史を紐解いた光秀の人生を見ると、周囲の結束の強さは光秀の人柄から来たことに納得がいきます。
何せ、本能寺の変→山崎の合戦敗退まで、直属の家臣・部下は一人も寝返りをしていないのだそうで。

意外と敗者側から見た歴史も、探ってみると「逆こそ真なり」な話が多いものですね。

投稿: Takeuchi | 2007年5月 5日 (土) 00時25分

そういえばこちらでも勝龍寺城跡という光秀縁の史跡がありました。昔は木々が鬱蒼と繁り澱んだ堀が残る場所でしたが、今はやたら明るく綺麗な公園になってます。
(昔の雰囲気の方が個人的には好きだ...)
秋にはガラシャ祭りなんてのもありますけどコレは歴史ある祭りでなく最近始まった物です。

投稿: ごしゅりん | 2007年5月 5日 (土) 11時19分

>Takeuchiさん
いろいろ調べていて知ったのですが、光秀が福井に一時居たのも、齋藤氏の内輪もめ?で道三方についたために破れ、一族が離散してしまった際に、母方である若狭武田氏を頼ったからだそうですね。そして、越前の朝倉氏に仕えることになったとか。誰が勝者で、誰が敗者になるか、それは紙一重のことで、ましてや何が正義なのか、後世の権力者が歴史を都合のいいように解釈してしまうことには(たとえば戦前の南北朝時代の解釈なんかもそうですが)、よく考えないといけないなぁ、と思います。ちょうど昨日が憲法記念日だから、というわけでもないですが。

>ごしゅりんさん
勝竜寺城公園、確かにやたらキレイな公園ですね(笑)初めて前を通って、突如現れたお城にビックリしました。キレイすぎて、あまりホンマモン感が無い、という気もしますが。。。勝竜寺城って、忠興がガラシャと祝言を挙げた城だそうですね。ガラシャ祭、聞いたことはありますが、見たことないです。

投稿: harada | 2007年5月 5日 (土) 12時06分

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受信: 2007年5月 5日 (土) 00時13分

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