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2007年2月24日 (土)

五条別れ道標と天智天皇稜

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今日は朝から京都でも小雪が舞っています。山科へ午前中行っていたので、その道中に少し写真をば。

東海道線の山科駅前から三条通(東海道)を西に進みます。この付近には出窓や虫子窓の町家も点在していて、街道筋の風情が残っています。しばらく進むと、「五条別れ道標」がありました。京都市の登録史跡にもなっているこの道標には、

左ハ五条橋 ひがしにし六条 大佛 今ぐまきよ水  右は 三条通

と書かれています。つまり、「この三叉路を左(渋谷越、現五条東山トンネル付近)へ行くと五条大橋、東西六条(=東西両本願寺)、方広寺の大仏、今熊野、清水あたりへ行けますよ。右は三条通(=東海道)ですよ。」ということです。裏には、「宝永四丁亥年十一月吉日」「願主 沢村道範」と刻まれています。今からちょうど300年前に立てられ、それ以来ずっとこの地の変遷を見つめてきたわけですね。

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さて、さらに西へ進んだ一帯は「御陵(みささぎ)」と呼ばれています。この辺りは京都に入る東海道が東山連峰を越える最後の峠、日岡(ひのおか)峠の入り口にあたるところですが、その上りにさしかかるあたりにある天智天皇の陵墓にちなんだ地名です。ちなみに、江戸時代ごろには,御廟野と呼ばれていたとか。

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天智天皇といえば、青年期には中大兄皇子として知られる人。そう、中臣鎌足とともに大化の改新をなしとげた人です。『小倉百人一首』の冒頭に収められている

秋の田のかりほのいほの苫を粗み わが衣手は露にぬれつつ

でも有名ですね。ちなみに天智天皇は、水時計を作らせて時報を始めた人でもあるんですね。それをたたえて、御陵の入り口には昭和13年に京都時計商組合が建立した日時計があります。

さて、天智天皇は671年12月3日に大津宮で亡くなったのですが、すぐにここが陵墓となったわけではありません。天智天皇の死後、息子である大友皇子と弟である大海人皇子が皇位をめぐって争った壬申の乱(672年)が起こり、天智天皇の死後28年も経った699年に,正式にここが陵墓となったのです。

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『万葉集』には額田王の歌として

やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は去き別れなむ

が収められていますが、その御陵が、まさにこの地のことです。

『延喜式』(平安時代初期の法令集)には「兆域東西十四町南北十四町(約1,500m四方)」とあり,現在よりかなり広かったようですが、車の往来の激しい三条通から中に入ると、まるで別世界のようにひっそりと静まり返っています。

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